
こんにちは、ますQです。
私の母は2015年の12月に亡くなりました。
前に直腸ガン発覚から闘病生活について書きましたが、今回は抗ガン剤治療を終わりにしてからのことを書きたいと思います。
「緩和ケア」っていうものですかね。
抗ガン剤治療の終了
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抗ガン剤の治療はやはりツラかったようです。
母親から「抗ガン剤をやめることにした」と言われた時、これで治る見込みはなくなるのですが、抗ガン剤でツラい思いをしなくて済むので良いことなんだろうと思いました。
母は何でもないことのように、普段どおりの口調で話してましたね。
2015年の8月のことでした。
直腸ガン発覚から3年と3カ月くらい。
「5年生存できなかったね」と、淡々と言っていました。
それまで入院したり治療をしてもらっていた大学病院の先生に挨拶をしてきたとか、
今後は緩和ケアの先生が週に2回くらい往診に来てくれるとか、まるで他人事のように冷静に話していましたね。
この時点で、余命は1年くらいと言われていました。
そして、そのすぐ後に私の妊娠がわかりました。
母は私の妊娠にビックリしていましたが、孫に会えるのを心の支えにしてくれればと思いました。
緩和ケアのみになるということは、あとは本人の気力体力次第ということですからね。
本人は「あと半年もつかな」とか「年越せないかもね」とか言っていましたが、私は1年以上大丈夫だと思っていました。
この頃は、お腹にいる孫に会わせてあげられると信じて疑っていませんでした。
少しずつ身体が動かなくなっていく
9月には、祖母(母の母)の米寿祝いで、親戚みんなで温泉に行きました。
大人13人、子ども5人とにぎやかに過ごしました。
母も前からとても楽しみにしていたし、当日も楽しんでいましたが、はしゃいだせいか身体への負担も大きかったのか、予定より早めに帰ることになりました。
これが母の最後の旅行になったので、みんなで行けて良かったです。
時が経つにつれて、できることが減っていきました。
ひとりで外に出ることができなくなりました。
私と長女が実家に遊びに行っても、食卓に一緒につけずに自分の部屋にずっといるようになりました。
トイレまで行くのも、誰かの手を借りなければならなくなりました。
母は字がキレイなのが自慢でしたが、読むのが難しいくらいの字しか書けなくなっていきました。
10月11月は私はつわりがかなりあって、会社を休んだりしていました。
長女の保育園のお迎えは父にお願いすることが多かったです。
父は私以上にアナログ人間で、携帯も持ってない人なので、頼みごとがある時はいつも母にメールをしていました。
この頃は毎日のように母とメールをして、お互いの体調を気にしていましたね。
母は「自分が動けないのがもどかしい」と言って、私の心配をしてくれていました。
「娘の窮地を救わなくては!」と言うメールをくれたこともありました。
1度だけ、「もうツラい。早く逝きたい」とメールで弱音を吐いてきたことがありましたが、その1度だけでしたね。
母の最期の外出
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11月7日、長女の3歳の誕生日に、七五三のお祝いをしました。
歩くのが大変そうで座れるところを探しては座っていました。
七五三の後、長女と、私とダンナ、両家の祖父母の7人で食事をしましたが、私と母がほとんど食べられないという会食でした。
これが私と母との最後の外出でした。
2人とも具合は良くなかったけど、カツラをかぶり、嬉しそうに長女と写る笑顔の母の写真が残っています。
母の最後の外出は、母の妹夫婦(私にとっての叔父・叔母)が来た時に、車で買い物に連れて行ってくれた時だと思います。
長女の服やパジャマを買ってくれました。
買い物に行くと知っていれば、何年か先まで着れるような大きいサイズの洋服もお願いしたのに、と思ったことを覚えています。
11月半ばのことで、叔父さん叔母さんは、母を新潟の実家に連れて帰ろうとしてくれましたが、母は「行けそうにない」と言って断っていました。
ベッドからの移動がツラくなってきたみたいで、介護ベッドと入浴用のイスをレンタルしていました。
それを使って、家で過ごしていくつもりなんだと思っていたのですが。
「もう入院したいですって先生に言う」と言って、11月27日にホスピスに入院しました。
介護ベッドは1週間くらいしか使ってないと思います。
入浴用のイスは一度も使わなかったんじゃないかな。
入院とホスピスでの生活
「入院しました」というメールが来て、翌日に会いに行きました。
すると、
「あと2週間くらいだって」と平気な顔で言われました。
先生からは、早く葬儀社に連絡しておいた方がいいとも言われたようです。
予想よりかなり早い余命に私はとてもショックを受けました。
本人がさほど気にしてない様子もショックでしたね。
先生には、「今ならまた家に戻って何日か過ごすことができる」と言われたみたいですが、母は家に戻らず、ホスピスで最後を過ごすことを選びました。
家だと父の世話にならなければいけないのが、母にとってはツラいことだったようです。
もともと看護師なので、病院の方が性に合っているようでもありました。
先生や看護師さんと専門的な会話もよくしていたようです。
私はつわりが終わってラクに動ける身体になっていました。
会社には事情を話して、もともと時短だった終業時間をさらに少し早めてもらい、毎日母の病院に寄るようにしました。
保育園にも話して、お迎え時間を少し遅くしてもらったり、父にお迎えに行ってもらって実家で夕飯を食べたりしました。
この頃は、仕事も育児もしなければいけないけど気持ちが落ち着かなくて、精神的にツラかったですね。
入院してすぐは、「病院のご飯がおいしくて楽しみ」とか、「今日はフットマッサージをしてもらった」とか、
「看護師さんに、『娘さんお母さんに似て美人ですね』って言われたから、『娘はどうだか知らないけど、私は美人よ』って言っといた」と
か、楽しそうに話していました。
あと2週間ほどしか残されていない時間でしたが、特別なことを話すでもなく、その日の出来事や、妊娠中の私の体調や、長女のこととか、いつもどおりの会話をしていましたね。
父は私とは違う時間に病院に行っていたし、兄は家が遠いので、平日は私と母の2人の時間を病院で過ごしました。
週末は兄の家族や、私のダンナと長女が来たり母の妹夫婦や他の親戚、母の友人達が来てくれたり、病室が賑わっていました。
母は以前、「お見舞いとかは全然いらない。誰も来てくれなくていい」というようなことを言っていましたが、みんなに会っている時はとても嬉しそうでした。
調子がいい時は車椅子に乗って、病院内を散歩したりしました。
ホスピスの入院は結局2週間ももちませんでした。
母の身体は日に日に悪くなっていきました。
病院食を楽しめたのも最初の2日くらいで、その後はどんどん柔らかい、流動食へと変わりました。
水分もそのまま飲むとむせてしまうので、粉末を入れてとろみをつけて飲むようになりました。
大好きだったビールも飲めず、ヨーグルトも長女にあげていました。
時間の感覚や、話の内容もごちゃごちゃになっているようでしたね。
「今日、妹(私の叔母)が来るって言ったのに来ない」とか、私にメールが来ました。
「叔母さんが行くのは明後日だよ」とか、ひとつずつ教えていきました。
その時はわかっている風でも、ひとりになるとわからなくなってしまうようです。
そうやって毎日していたメールも、手が動かなくなりできなくなりました。
言葉を発する回数も少なくなりました。
覚悟をしなければいけないんだなと思いました。
母の最期については、また次の記事で書きたいと思います。
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